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  • 執筆者の写真JAKEHS EAST

イニョン (인연)

更新日:2019年9月17日

(記事執筆=遠藤正承/神奈川県立高等学校非常勤講師)

          

Aさんからあるとき突然問いかけられた。Aさんとは2002年から定時制同僚の英語教師だ。


-A 「遠藤さん、梶井さんって知ってる?」


-私 「知ってますけど。なんで急に梶井先生のこと?」


-A 「いやあ、たまたま、遠藤さんが朝鮮語やってるってことで思い出したんだ。遠藤さんはなんで梶井さん知ってるの?」


-私 「実は、梶井さんから朝鮮語習ったことあるんですよ。」


-A 「ええ!!!ほんと!?都立大??」


-私 「都立大ではなくて東中野にあった新日本文学会の事務所ですよ。1年ほど教わったんですよ。で、Aさんはなぜ梶井さんを知ってるの?」


-A 「実は梶井さん、ぼくの中学の担任だったんだ。」


-私 「ええ!!!ひょっとして、東京都豊島区立朝日中学校?」


-A 「そうそう。当時生徒の間では梶井さんって朝鮮語ができるっていううわさだったよ。」


-私 「いやあ、びっくり!!!まさかAさんの担任が梶井さんだったなんて。おもしろい縁ですね。」


-A 「ほんと、そうそう。」


-私 「梶井さんは十条の都立朝鮮人中学校で理科の教師をやっていて、その後学校が都立ではなくなり、中学校に移ったそうだ。」


-A 「そうそう。だけどその後富山大学に移ってから亡くなられたそうだ。」


-私 「そうなんですよ。今思うと若かったですね。残念だなあ。」

-A 「いやあ、なつかしいですね。こんな話できるなんて、妙な縁ですね。」


Aさんは2010年8月のある日、北穂高岳で逝ってしまった。そのことを知ったのは私が韓国滞在中、PCの使い方を職場の人に尋ねたときだった。私の質問メールに対し、なんと「これから卒業生たちとともにAさんの通夜に行きます」という悲報が返ってきたのだ。


北穂高岳といえば、私も何回も踏んだところではないか。確かに険しい山稜で足元は切れ落ちているけれど、Aさんがそこで遭難死するとはとても考えられない。持病があったらしいのでそれが影響したのだろうか。突然のことでご家族のショックは大きく、私は追って弔問に行くこともできなかった。


Aさんは山と「よさこい」を愛する人であり、学校では生徒思いの熱い教師だった。生徒と勉強のこと、仕事のこと、いろいろな悩みをじっくり語り合っていたことが忘れられない。

梶井陟先生はご自身の体験記にも書いているように、朝鮮人中学校での生徒の反発を全身で受けとめ、理科教師の傍ら朝鮮語を習得、そして文学研究に没頭していった。その後、富山大学人文学部朝鮮語朝鮮文学コースに移られたが、1988年9月9日ガンで亡くなられた。梶井先生の朝鮮文学関係の貴重な蔵書は現在富山大学に収められている。梶井先生に関する入手しやすい書籍として、梶井陟『都立朝鮮人学校の日本人教師』(2014、岩波現代文庫、初刊時の書名は『朝鮮人学校の日本人教師』、1966年、日本朝鮮研究所)を紹介しておきたい。

Aさん、梶井さんそれぞれ、50代初、60代初で逝ってしまった。Aさん、梶井さん、私を結ぶこのイニョンは不思議なものである。


そしてイニョンという韓国語/朝鮮語、そしてこの語の独特な響きがとても好きである。

 

■遠藤先生の過去の記事

친구考(2019年2月9日)

図書館の蔵書整理に思う(2018年10月14日)

韓国語の台風名(2018年9月11日)

■参考リンク

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